集中力は一日中続かない
今日はいつにも増してPCと一日中向かいあっていた。締め切りの課題が複数あったためだ。
想像はしていたが、一日の集中力はそう長くは続かない。2,3時間ほど覚醒したかのように深く考えて文章にできたかと思えば、昼休みや授業で時間を空けて続きをやろうとしても先ほどの中身が頭に入らなくて、内心どうでもよくなっている。課題の精度を重視するにおいては危険な現象である。数日に及ぶ複雑な課題も、上手くできる日と出来ない日があるため、推敲に時間を要する。
集中力が低下したときにどうリフレッシュし頭を回転させられるか、自分と向き合う必要がある。
何も痛まないことの幸せ
紙で指を切ったり、お腹が痛くなったり、風邪を引いたりと、身体のどこかが不調になるとそれまで何もなかった状態がとても有難いことに気が付く。
風邪気味で熱っぽいと、それだけで課題に集中できなくなるし、手足を怪我すると風呂場で染みるから気を遣う。少しでも痛みを感じたら、一刻も早くその痛みを取り除きたくなるのは自然なことかもしれない。
苦痛に開放されて初めて、健康であることに喜びや幸せを感じられる。
逆に健康なときは、その有難みに気が付かないものである。
大きな雨音は不安にさせる
最近は天気が不安定だ。短期間で集中的に降る雨には驚かされる。洗濯物が濡れたり窓の開いた部屋の隅に吹き込んだりと、家に居るとしても降り始めた途端から油断ならない。
普通の雨音ではなく、ゲリラ豪雨の雨音を聞いていると、少し不安になるのは私だけだろうか。なにかこう、際限なくたたきつけるような大きい雨音に、心がざわざわと落ち着かなくなる。抱えている悩みに伴う不安を不用意に揺さぶられるような心地がするためかもしれない。
雨の日に気分が塞ぎがちな状況に似た現象だろうか。雨が酷いと、自分の居る場所の周りが大きな音に覆われて、他の音が聞こえなくなる。電車の音、鳥の声、子供たちの声など、普段そういった何気に耳にしている音が聞こえないのは、なんだか寂しい。
こんなときは、明るい気持ちになれる音楽や綺麗な自然音を聴くようにしている。
早く止みますように、晴れますように、と気持ちが沈まないように。
今見ると深みを感じる
ふと昔見ていたドラマやアニメを見返すと、昔とは違う視点で見ることができて感慨深い。当時はピンとこなくて衝撃だけが残っていたが、今見ると考えさせられることばかりで一つ一つのシーンに深みを感じる作品は多い。
核心を突いた名言は時が経ってこそ心に突き刺さる。もっと早く理解していれば、と悔やみたくなるが、昔に戻ることはできない。
慣れ親しんだ作品に込められた想いや格言を「今」実感することで考え方が変わったり何かに感謝できたりと、作品から今後の自分のためになるヒントを見い出せるのかもしれない。
1日の過ごし方にある
課題の進み具合で一日の達成感は違う。
全く進まなければ罪悪感に押しつぶされ、さくさく数を熟せれば少し自信に繋がる。
毎日上手くいくことはないが、どうやったら自分で決めたタスクを熟せていけるかを考え、達成できるように訓練することはできる。
自信は、試行錯誤の上での日々の小さな積み重ねによって生まれていくのだと思った。
日常に潜む考え方を変える
自分のペースが乱されるという事態が起こると安定を求め、現状維持に走る思考が先行する。そんなときはありとあらゆる言い訳が浮かんでくるものだ。
「面倒くさい」で片づけるのは楽だが、それが習慣、癖になってしまうと不味い。
新たな挑戦、新たな環境に足を踏み入れることに抵抗し続けると何も変わらない。
そこで、こんな状況を改善するために思考の転換をすることはできないだろうかと考え始めた。
いつもと違うことをやるかやらないかの選択に追い詰められたときは、まずやらないと思う理由はなにかを自分に問い詰めていく。それが結局惰性のために「面倒くさい」だけなのだとしたら、やることに意義を持ってみないかと提案し心の中で可能性を見出してみる。
どんな可能性かというと、「これをやってみたら、今までと違うものが見えてくるかもしれない」とか「やって得た経験値が、自分が将来困ったときに役立つかもしれない」など発想の転換に似たものだ。
考え方を変えるのはなかなか難しいものだが、自分なりに「こう考えてみたらどうか」と思案してみたら、意外にもあっさり行動に移すことができるのではないかと思う。
今ある習慣は、ある意味現在の考え方や思考の象徴とも言える。なぜそれをやらないのか、やろうと思うのか、考え方次第で行動は変えられると言い聞かせていきたい。